父が他界しました。享年69歳、若すぎる死でした。私の誕生日の前日で、祖母の命日でした。
介護施設で脱水症状を起こし、急死でした。
急報を受け、アメリカの旅行先から必死で航空券を探しましたが、東京五輪にかかるこの数週間分はまったく見つからない。
どのみち、帰国できたとしても2週間隔離であり、葬儀には参列できない。
悲しいやら、情けないやら、憤りやらで、涙が止まりませんでした。
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父は、多才な人でありました。
自転車製造企業でデザイナーをしていて、80年代より製造業におけるPCでの工業デザインが始まり、コンピューター全般に興味がある人でした。
1983年頃にファミコンを買ってきてくれて、小1の自分はそれが何だかも知らず、近所の友達も知らず、ソフトも「テニス」「ピンボール」「マリオブラザース」くらいしかありませんでしたが、我々すぐにそれにはまりました。但し、それ以降ソフトをまったく買ってくれず、次第に飽きて、その後の86年販売開始のドラクエをはじめとしたブームにはまったく乗れなかったのを覚えています。けど、それにより我慢することを覚えました。(クラスのみんながファミコンソフトの話をする中で結構つらいものはありました) 私が今は親として子に接していますが、倹約の大切さは身をもって(要するにケチ)伝えています。
一方、ドラクエが出た少し後に父がワープロを買ってきたので、私はそれに没頭しました。ただ、ディスプレーが1行しかなく、文章を書き連ねることは出来るものの、将棋盤面なんかを作ろうとすると至難の業で、それが逆に面白かったのです。
さらに、88年頃には画面上何十行もあり、機能も激増し、ファイルをフロッピーディスクに保存できるワープロを買ってくれて、何百時間もそれに費やしました。それでも主にテキスト編集しか出来ないのですが、画面上簡単なレイアウトが比較的容易に組めるようになったので、学級通信を小6で作り始めました。その当時、小学生がワープロで作る学級通信は非常に珍しかったと思います。
父が初期のMACを買って来た時には、ユーザーインターフェースはそこそこ2台目のワープロに似ていたものの、もう私にはお手上げで、それを使ってデザインをする父はすごいなと感じていました。
家にはバカボンのパパがスーパーコンピューターをはじめとしたテクノロジーを語るという謎のマンガがあり、意味がさっぱり分からないものの、穴が空くまで読み尽くしました。
運動神経も非常に良かった。
夏は週末はしょっちゅう会社のプールに連れて行ってくれて泳ぎを教えてくれました。その上、3人の子どもがいて家計が苦しいのに(ちなみに、母は家計簿を毎日一円単位でつけていて、収支はオープンにしていました。私はそれを見て、20代で米国の公認会計士になりました)茅ヶ崎にある湘南スイミングスクールに通わせてくれました。ただし、父は自転車会社勤めでしたから、私のスイミングスクールへの寒川〜茅ヶ崎間の数キロの往復はもちろん自転車でした。スクールはかなり厳しく、プール後の冬の帰宅も寒くて辛かったですが、上級コースに招待されるほどには上達しました。何よりガッツがついたのがその後の人生として一番大きかったかもしれません。
自転車会社ということで、展示用の型落ち最新版の自転車を何年かに一度家に持ってきてくれるのは、当時の私の人生の中で最も嬉しいことの一つでした。小学校ではMTBを、中学ではフラットバーロードを、高校ではロードレーサーを、それぞれ与えてくれました。
そのMTBと水泳力で、小学5年生の頃に会社のトライアスロン大会に父と出ました。大人の中でも父と私は水泳はトップレベルで完泳しましたが、そこは自転車会社、ロードレーサーに乗った自転車好きの社員たちにぜんぜんかないません。宮田工業から江ノ島に向かうはるか手前で(おそらく茅ヶ崎第一中学校のあたりで早々に)全員に抜かされ、その後離されすぎて、ランは予定時間内に終える見込みも立たなくなって、コースをショートカットして(要するにズルして)親父とゴールしました。子どもの中ではそれでも2位でしたが、そもそも子どもの参加者は二人だけでした。ただ、大人になってからは何回かトライアスロンとマラソンを完走することが出来ました。一度、70kmちょっとを浦安から走って寒川に帰省に行ったこともありました。
自らが会社の野球チームでプレーするところを見せてくれたり、私が小5で始めたバスケも1 on 1に付き合ってくれたりと、運動神経が良くない私をスポーツの世界にいざなってくれたのは父であり、私はどんなスポーツも総じて並以下でしたが、そこで身につけたガッツと体育会系の考え方、処世術、継続的にスポーツと運動をする所作、そしてクラブ活動の中で得た友人は人生の中でかけがいのないものとなりました。
楽器も弾け、ギターの腕前はなかなかのものでした。
ギターはアルペジオも弾いていたので、今の私より上手かった。ただ、歌は好きだったものの、非常に下手でした。それにも関わらず、「カラオケスナックで飲んでいるので、迎えに来い」と僕が大学生の時に深夜に電話してきて、店に行くと、下手な歌を聴かせ、挙げ句に「こいつは歌は上手いから歌わせてやってくれ、酒も出してやってくれ」とミイラ取りがミイラになるようなこともありました。私は高校ではバンドでギターを弾くようになり、今も上手いかどうか別としてYouTubeでギターの弾き語りをアップしてYouTuberの真似事なんかをしています。
父は海外志向もあり、英語も勉強していた。
父の会社はMTBのブームに乗り、ロードレーサーの方ではツール・ド・フランスのスポンサーシップなどもしていて、自転車の海外生産も増え、それに合わせて英会話や英単語を一生懸命勉強していた。わたしも父の英語の本は小学生の頃から読んでいた。父は大人になってから勉強したこともあり、なかなか英語が出来るようにならなかったので、私は早いうちからやらなきゃいけないと思い、中・高と真面目に勉強し(ちなみに私は高校の成績は学年で下から10番くらいで他の教科はまったく勉強していなかった)、大学でアメリカ留学、社会人で再度アメリカ留学、その後アメリカ駐在することとなった。
父の会社でZで始まる自転車を発売・マーケティングする際に、二人でああだこうだ商品の名前の候補について議論したのもいい思い出。
将棋は、私は父にほとんど勝てなかった。
父は特段こだわりなく、居飛車・相掛かり・三間飛車・四間飛車・中飛車、棒銀・雀刺し、美濃囲い・矢倉囲い・穴熊を幅広く指し、私は駒の動かし方から父に教わったので戦術や囲いは父のコピーでしたが、父が買っていた中原名人らの本を読んで定石をどれだけ勉強しても、勝てない。一度あまりに腹が立って、将棋盤を父に投げつけたら、非常に怒られた。
結局私は一番身近な父にも勝てないので、「観る将」専門になってしまいましたが、藤井二冠、羽生元七冠の対局を中心に、仕事の合間に棋譜や解説動画を見ることで非常にいいストレス発散になっている。
ただ、全体的に父はかなり自由な人で、家族は、特に母は振り回されてきたところもある。(私は朝3時に茅ヶ崎警察署から運転関係で捕まった父を引き受けに行ったこともあります)
私は就職してからは千葉に住み、そこで結婚して、その後アメリカに駐在したり、父が徐々に痴呆症を発症したりしたこともあり、距離を取っていたのも事実です。
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こんなどうでもいい父と子の話は、他人にはまったく役に立たない情報で、インターネット上の泡沫でしかないですが、私の人生にとっては大きな部分を占めています。
スティーブ・ジョブズが演説で言った「人生は線であらかじめ結べない、だけど点と点が後からつながるんだ」というのは父との関係においても本当に強く感じることであり、人生の座右の銘となっています。
たとえば、娘は菓子やデザートを作るのが好きなのですが、私はパンを焼くのが好きで、そういうこともめぐりめぐって父に感謝したりするところもあります。
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航空券の目処が立たない中、呆然としながら、精神的に追い詰められながら、こんなことをずっと考えていました。(一部はこうやって書きながら思い出すこともあり、人の記憶は面白いものだなと思います)
上記の通り、自由な父に対して母は苦労してきたので、一刻も早く帰って、葬式を長男として取りまとめて、母を楽にしてやりたいというのが今回根底としてあった。ただ、それは今回かなわなかった。
涙も枯れた頃に思ったのは、そもそもの「人が死ぬ時の悲しさ」で(祖母も祖父も皆亡くなってしまっている)、日本で言うとコロナで亡くなられた方々が約15000人いて、その家族の人数はその数倍いるので、人の死によりどれだけの悲しみがもたらされただろうかと。
そんな中、東京五輪の関係で海外在住者は帰国の航空券も取れず(一部期間は政府が入国制限までしているとのこと)、それにより親の葬式にも出れず(そもそも航空券が取れても、日本政府が「2週間隔離者位置確認アプリ」の利用を義務付けており、物理的に葬儀に出れない)、感染者が多かれ少なかれ日本国内で間違いなく増える(もう実際増えている)オリンピックは何でで今やる必要があるのかというのは、当事者として強く感じました。
安倍元首相時代の何が何でも一年延期論(なぜ安全サイドを取って二年にしなかった、プロジェクト管理としてリスク管理は当たり前で、そんなコモンセンスもない)、菅首相の強硬論とそれを中心とした一貫しない政策(なぜIOC、バッハと正々堂々と交渉をしない?これが民間企業なら当たり前だろう)など国民として納得できる部分がほとんどない。
そもそもが日本国民のための日本の政治家、なんじゃないのか?!
実際に人が死んでいるんだぞ、と。
また、ミクロ的な話としては、脱水で人が死ぬ、というのはよっぽどのことで、父が入っていた施設においてコロナ対応で入居者に対するオペレーションが疎かになっていたんじゃないか、そんなことも頭をうずまく。ガッチリとした体型の父は、亡骸では50キロを切り、驚くほどやせ細ってしまっていた。
アメリカにある日本の役所は役所で、航空券が取れてなければ(それを最短でやるために各社と交渉していたが、7月は最終週近くまではチケットが払底している様子だった)相続手続きに必要な証明書の予約は取れないだとか、死亡証明書を持って来いだとか(長男が日本にいないので、母も次男も葬式の準備などで忙殺されている)、アメリカの役所自体はもうほぼ正常化しているのに、コロナ禍の「どんな手続も予約必須、なので予約一杯で緊急予約したいなら、自ら必要性を証明せよ」とかっていうのは、もう海外にいる日本の国民のためのルールなのか、ルールを守るためだけのルールなのか、あまりに腹が立って、一気に頭の中が沸騰してしまい、途中、感情のバランスを崩してしまったのもあった。
結局、本来は、安倍元首相も菅首相も役所も、日本でもアメリカでも、日本人が日本人の健康と幸福のために働いているんじゃないのか?? もう色々なことがボタンとしてかけ違っている気がする。
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棺に入った親を、リモートで、画面越しに見送った時に、もうどうも表現できないくやしさ、悲しさに襲われ、画面の向こうの母、弟、妹、親戚らに何と言っていいのかわからないし、こちらでは横に妻と娘もいて、泣いている。
父との思い出だとか、母の泣き声とか、自分の涙だとか、もうどう整理したらいいか分からない。
ただ、父が安らかに眠り、兄弟3人で母をこれからも支えていけますように。
日本がいつか正常に戻り、皆が健康で暮らせますように。
日本が皆が暮らしたいと思えるような国になりますように。