Japan, Silicon Valley

宮田工業 ー ディスラプションにまつわるノスタルジア

Disclaimer: 私は現在モリタ宮田工業の利害関係者ではなく、株式も保有していませんし、ただ親父が宮田工業で働いていただけです。

実に久しぶりにミヤタのサイクリングシャツ(英語では cycling jerseyですね)を着てサイクリングに出かけました。ゆっくりと近所を見ながら、10km弱、気付いたことの写真を撮ったりしながら、カリフォルニアの春の最高の気候を楽しみながらポタリングのペダルをこぎました。

親父が宮田工業で働いていたので、このjerseyに袖を通すと、強烈なノスタルジアに襲われますのと、特定業界のディスラプションに思いをはせざるを得ません。

Wikipediaの参照ではあるのですが、

1893 – 国産第一号自転車の試作車を完成、販売開始。

とのこと、非常に自転車において歴史がある会社です。

私は1977年に生まれましたので、もちろんその長い歴史を詳細に知っているということはないのですが、流行る前からMTBがうちにありましたし、小学生の頃からトライアスロンやらされましたし、高校生の時はロードレーサー通学でしたし、自転車についてはとても恵まれた子ども時代でありました。

Wikipediaの沿革を見ますと、

1981年 – ツール・ド・フランスでピーター・ビネンがMIYATAのロードフレームで第17ステージ区間優勝、総合5位、マイヨ・ブラン(新人賞)を獲得。

1990年 – MTB世界選手権ダウンヒル部門でグレッグ・ハーボルトがMIYATAのMTBフレームで優勝。

とあり、親父が1990年くらいには海外出張に出ていたこと、その頃はミヤタも「社内ミニトライアスロン大会」があったこと、駆け出しのMTBが家にあったこと、など考えると80年代、90年代がミヤタの最盛期だったのだと思われます。

一方で、その後、中国産の安い自転車がどんどん輸入されるようになり、(私も個人的に「ダイクマ」などで目にしていました)結構商売が厳しくなってきたことは親父から聞かされていました。

その後、

  • 2010年 – 自転車部門を「株式会社ミヤタサイクル」として分社化
    • 8月31日、モリタホールディングスは、ミヤタサイクル株式の30%を台湾のスポーツ自転車メーカー『MERIDA』に売却。
  • 2014年3月、モリタホールディングスは、ミヤタサイクル株式の45%を「同社(自社株)」「シナネン株式会社」「台湾MERIDA」に売却。モリタホールディングスはミヤタサイクルの親会社でなくなる。
  • 2019年7月1日、モリタホールディングスが、保有していたミヤタサイクル株式の残りをすべて「台湾MERIDA」に売却。これを以ってミヤタサイクルはグループから離脱した。

とあり、ママチャリ→MTB→その他 とコモディティ化してきた自転車のビジネスが、1990年代に親父が言っていた通り、中国との価格競争において徐々に厳しくなってきて、2010年を皮切りに、その先の姿もイメージしながら資本政策を進めてきたものと思料します。

僕にとって、小5で参加したミニトライアスロンは衝撃的な経験だったし、30代からトライアスロンに参加し続けたのは間違いなくその影響だし、

箱根の山奥の温泉まで寒川からサイクリングで80km往復したり、アメリカでも60km往復してワイン2本買いに行ったりするcrazyさや、浦安から200kmのブルべに参加して心より楽しいと思ったりするのも、宮田工業のおかげだと信じているんです。

だけど、85年にはプラザ合意で急激に円高になってしまったし、中国は生産力を付けて低付加価値商品からどんどん日本に攻め込んできたし、結局ディスラプトされてしまった。

だから、今日もチャリには乗るんだけど、今日(こんにち)において出来ることは、どんな中長期的なディスラプションが起きても、なんとかやっていけるように、会社の仲間と、家族と、自分と守っていけるように、矛盾的かもしれないけど、「自分と自社をディスラプトすること」だと思う。

どうしたって、昨日の続きの仕事をしてしまうし、明日もそうなりがちだけど、ケンカしたって、嫌われたって、これは親父が、ミヤタが、教えてくれたことだから、絶対に学ばなければいけない。

それしか出来ないから。

それをしないと、いつか完全にディスラプトされる日が来る。
(よっぽど規制で守られている、とかでなければ。だけどそういう業界で働いてもそんなに面白くないんじゃないだろうかと思ったりもする)


このジャージはおそらくミヤタが1980年代にサイクリングチームを有していたときのもので、40年物だと思うんだけど、色々思い出すために、まだ着続けようと思う。

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